あまり知られていない「ひな祭り」の歴史

2021年11月27日

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女の子の節句としてお祝いされている「ひな祭り」ですが、その起源は今から約1,200年以上も昔の平安時代にまで遡ります。諸説ありますが、当時の宮廷貴族の子女の間で行われていた、おままごとのような遊びが元になったとされています。また、当時は医療が発達していなかったこともあり、赤ちゃんが無事に育つことを祈願して、
厄除けの意味を込めた身代わりの人形を枕元に置いたり、海や川に人の形をした物を流す「流し雛」といった行事もあったようです。
長い年月の間に、これらの行事がひとつに結びついて、安土桃山時代以降、宮中では春の行事として「ひな祭り」を行うようになっていきましたが、
この頃はまだ現在のような雛人形はなく、布を人のような形に仕立てただけの簡単な物だったようです。今のような雛人形のスタイルが確立されたのは、
さらに200年近く後の江戸時代後期のことです。


目次


  1. 貴族社会が生み出した風習

  2. 京都から江戸に伝わり花開いた文化

  3. 「ひな祭り」に登場する食べ物の意味

  4. 我が子の無事な成長を願う親心はいつの時代も変わらない

  5. さいごに

貴族社会が生み出した風習


歴史の授業で「794(鳴くよ)ウグイス平安京」と憶えた人も多いのではないかと思いますが、平安時代が始まったのは西暦794年。
今からはるか昔、1,200年以上も前のことです。桓武天皇が平安京(現在の京都市)に遷都したことから始まりました。
貴族文化が花開いた時代で、この頃に書かれた枕草子や源氏物語などでその華やかな暮らしぶりを垣間見ることができます。


平安貴族の子女が遊びとして行っていた「ひいなあそび」と、災いを人の形の物に移して水に流す厄祓いの行事「流し雛」が一緒になって後に「ひな祭り」へと変化していったと言われていますが、室町から安土桃山時代あたりまではまだお祓いの意味が強い行事だったようです。
当時は特に中国(唐)の影響を強く受けていたため、厄払いなどの風習の多くは唐から伝わった考え方が元になっています。現代でも残っている1月7日の人日(じんじつ)、3月3日の上巳(じょうし・じょうみ)、5月5日の端午(たんご)、7月7日の七夕(たなばた)、9月9日の重陽(ちょうよう)の五節句の風習のうちのひとつである上巳が桃の節句ですが、中国ではこの日は災いを祓うために身体を清めてご馳走を食べるという習わしがあったそうです。それらが日本に伝わり、我が子を疫病や災いから守るため、身代わりとして人の形をした物を飾ったり、草木や紙などで作った人形を川に流して厄を祓うことで子どもの無事な成長を祈願する行事と重なって定着していきました。中国では昔から桃は邪気を祓い不老長寿をもたらすとされており、
お祝いの席でも桃をかたどった食べ物を食べる習慣があるそうです。


京都から江戸に伝わり花開いた文化


1603年に徳川家康が江戸に幕府を開いたことで江戸時代が始まりました。この頃は京の都は天皇、江戸は徳川家とそれぞれの地で権力を二分していましたが、その後次第に徳川家が天皇の皇位継承問題に介入するようになっていきます。
1611年に後水尾天皇(ごみずのおてんのう)が即位すると、徳川は1620年に家康の孫娘を嫁がせました。後水尾天皇は度重なる徳川家の横暴に嫌気がさし、幕府に一切連絡することなく、当時7歳だった興子内親王に天皇の座を譲位してしまいました。記録によると1629年11月8日の出来事だったそうです。
「ひな祭り」が江戸に伝わり、雛人形が大流行するきっかけになったとされるのが、1629年に京都御所で行われた盛大な「ひな祭り」ということですから、後水尾天皇が我が娘のために開催したものだったのかもしれません。天皇を父に持ち、母は徳川将軍家という血筋ですから、その後に「ひな祭り」が大奥へ伝わり、さらに江戸の一般庶民へと広がっていったということも頷けます。
「ひな祭り」の風習を大奥に持ち込んだのは春日局と言われていて、女の赤ちゃん誕生を祝う初節句の風習が加わり、徐々に3月3日の桃の節句は女性のお祭りという考え方が定着していきました。時期ははっきり分かりませんが、江戸幕府は五節句を公的な祝日として制定していたようです。
1700年代以降、江戸の町には雛人形を扱う雛売りが登場したり、人形店が軒を連ねる雛市が開かれ、大流行した様子が浮世絵にも残されています。

江戸名所図会 1巻「十軒店雛市」
斎藤長秋編 長谷川雪旦画 天保5~7年(1834~1836)刊
国立国会図書館蔵
江戸名所百人美女 十軒店
歌川豊国、歌川国久画 安政5年(1858) 国立国会図書館所蔵

江戸幕府は何度か華美な雛人形について禁止令を出しています。金箔の使用禁止や大きさを八寸以下(約24cm以下)に指定するなど、江戸中がどれだけヒートアップしていたのか伺えます。流行に熱中するのは昔も今もあまり変わらないようですね。

「ひな祭り」に登場する食べ物の意味


「ひな祭り」に付き物の食べ物と言えば、真っ先に思い浮かぶのが菱餅とひなあられではないでしょうか。菱餅は、一般的にはピンク、白、緑の三色ですが、地域によっては二色だったり、五色だったりするそうです。菱という植物は池や沼地に自生する水草で、繁殖力が高いことから子孫繁栄の意味にも用いられ、昔から吉祥文様のモチーフや家紋などによく使われています。また、その実はクワイのような味わいで栄養価が高く、血圧を下げる効果もあると言われています。赤(ピンク)は桃を表していて魔除けの意味、白は雪のイメージで菱の実を使い子孫繁栄・長寿・純潔、緑は新緑を表しヨモギを使うことで増血効果や厄除けの意味が含まれています。

ひなあられも日本全国で少しずつ違いがあるようですが「ひな祭り」には欠かせない食べ物のひとつです。例えば、関東ではお米を使ったポン菓子を使用した物が多く、関西では小さなおかきを塩気のある味付けにした物が多いそうです。菱餅と同様に、赤、白、緑などカラフルに色付けされていて、やはりそれぞれにいろいろな意味が込められています。
「ひな祭り」のご馳走の代表は「ちらし寿司」と「はまぐりの汁」と決まっていますが、なぜでしょう?
諸説ありますが、昔は春の訪れを感じる季節になると、自然の恵みに感謝して自然の中で食事をするという風習があったそうです。また、江戸時代には倹約のために一汁一菜が命じられた際、食材をご飯に混ぜて食べる工夫が生み出されたという説もありますが、何より華やかで女の子の節句にはぴったりなご馳走ではないでしょうか。海老やれんこん、豆など入れられる具材それぞれに縁起の良い意味合いがあります。よくおせち料理でも言われていますが、海老は、魔除けや長寿、れんこんは将来の見通しが良い、豆はまめで健康に、そして、桃の花はでんぶ、菜の花の錦糸卵など、春らしい彩にもそれぞれ意味が込められています。
二枚貝のはまぐりは、対になっている物以外、他の貝殻とは絶対に合わないことから、良縁を意味する縁起の良い食材とも言われていますが、こちらも諸説あります。

我が子の無事な成長を願う親心はいつの時代も変わらない


「ひな祭り」の歴史を調べてみると、平安の昔から貴族も一般人も“子どもが無事に大きくなりますように、健康で幸せになりますように”と願う親心は変わらないものだということが分かります。医療が発達していなかった昔は、特に厄除けや神事に頼ることが多かったと思われますが、お祓いの意味合いが強かった「ひな祭り」も、江戸での流行によって華やかなお祝いの儀式に変化していきました。
三人官女や五人囃子が登場し、現代と同じような雛人形の形態が確立されたのは江戸の後期と言われていますから、最初に平安貴族の子女の間で遊ばれていた頃から考えると1,000年もの歳月をかけて変化してきたことになります。1,200年以上経っても無くなることなく、現代でもその意味合いがしっかり受け継がれているのは「ひな祭り」にまつわる全てのことに親の願いが込められているからに違いありません。

さいごに

駆け足で「ひな祭り」についての歴史を辿ってきましたが、親はどんな気持ちで雛人形を用意してくれたのか、さらにその前の祖父・祖母、さらにその前…とずっと続いてきた、子どもが健康で幸せになることを願う親の気持ちは永遠のものだということが分かってきます。ひとつひとつの意味を知ると今まで以上に「ひな祭り」の重要さを感じることができるのではないでしょうか。

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