五月人形の小道具について

2022年3月18日

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5月5日の端午の節句には鎧兜や武者人形、子ども大将といった室内に飾る物と鯉のぼり、武者絵幟など屋外に飾る物の2通りがあり、全部をまとめて「五月人形」という言葉を使いますが、実はそれぞれ起源が違います。
鎧兜を飾るようになったのは、鎌倉時代以降の武家社会の慣習からと言われていますし、武者人形や鯉のぼり、武者絵幟に関しては、江戸時代になってから商人たちが作り出した物とされています。
鎧兜と一緒に飾る弓や太刀のことを「小道具」と呼ぶことがありますが、正しくは「お道具」と言います。
お道具として弓や太刀を飾るのは武家文化の影響ですが、もともとは飾り方が現代とは少し違っていたようです。その意味合いや変遷について少し調べてみました。

目次


  1. 弓矢と太刀は魔除けの象徴

  2. 道具はもともと屋外に飾っていた

  3. 現代の五月人形を作り出したのは商人たちの対抗意識

  4. さいごに

弓矢と太刀は魔除けの象徴



現代の五月人形では鎧兜と一緒に弓矢と太刀が飾られるのが一般的ですが、これらのお道具もさまざまな意味合いを持っていると言われています。もちろん、武士が使う道具だったということも理由のひとつですが、武士が登場する遥か昔から弓矢は魔除けに用いられる神聖な道具でした。
平安時代の宮中では邪気や災厄を祓うための儀式として、天に向けて葦の矢を射る儀式や弓の弦の音を鳴らす儀式などが行われていました。
お正月に弓矢を使って的を射ることで一年の運気を占う神事も昔からよく行われていました。これが後に流鏑馬になったと言われています。
「破魔矢(はまや)」という言葉を聞いたことがあるかと思いますが、これは魔を矢で退治すること、つまり矢の中でも特に魔除けの意味を表した名前です。
また、中国の古い伝説に出てくる武神として有名な鍾馗は、弓矢を使って疫病や悪鬼を追い払うと言われていることから、江戸時代から長年続いている武者人形や武者絵幟の代表的なモチーフとして有名です。
そして、太刀(たち)は武士の刀と同じ物だと思われがちですが、実はそうではなく、儀式に使うための小道具の刀であって戦うためではないのです。古来より魔物は光る物を嫌うと言われており、弓矢と同様、邪気や悪鬼といったものから身を守るための飾りなのです。
刀との大きな違いは、太刀の方が太くて反りが大きい上に短いのが特徴で、脇に差す場合、刀は反った方を下に向けて差すのに対し、太刀は反りを上にして差すそうです。
五月人形のお道具である太刀の飾り方ですが、手に持つ柄の方を下にするのが正しい飾り方です。何だかちょっと不自然に感じてしまうかもしれませんが、柄を上にするのは戦国時代の臨戦態勢時に、すぐに使用できるようにしていたということで、平穏な時の本来の飾り方は柄が下なのです。

道具はもともと屋外に飾っていた


端午の節句の起源は平安時代に宮中で行われていた五節句のうちのひとつで、菖蒲が持つ香りや薬効で邪気を祓い、健康長寿を祈念する行事でした。
鎌倉時代に武士が台頭すると「菖蒲」という音が「尚武(武道を尊ぶこと)」と同じことから、身を守るための装具である鎧兜を災い避けの意味で飾ることが武家の間で流行しました。
また、男子の誕生を神や周辺住民に告知する意味で、戦の時に敵味方を見分けるために用いられた吹き流しや幟旗(旗印)を家の外に掲げる風習も生まれました。しかし、本物の鎧兜や幟旗、武具を飾ることが許されていたのは武家のみでした。

687年(貞享4年)井原西鶴,岡田三郎右衛門[ほか1名]『武道伝来記 8巻 [2]』(国立国会図書館所蔵)
「国立国会図書館デジタルコレクション」収録
(https://jpsearch.go.jp/item/dignl-2554416)

現代の五月人形を作り出したのは商人たちの対抗意識


一陽斎,曲亭馬琴,鶴屋金助『(五月端午の節句) 』(国立国会図書館所蔵)
「国立国会図書館デジタルコレクション」収録
(https://jpsearch.go.jp/item/dignl-1304506)

出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム
(https://colbase.nich.go.jp/collection_items/kyuhaku/H51?locale=ja)
出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)

江戸時代末期の様子が描かれた端午の節句の浮世絵には、屋外の柵に鯉のぼりや武者絵幟と一緒に大きな刀のような物が飾られている様子が描かれています。これは本物の刀ではなく、商人たちが武家を真似て作り出した菖蒲太刀と言われる装飾専用の木刀です。
鯉のぼりも武家の幟旗に対抗して作られた物で、中国の立身出世を意味する登竜門の語源とされる「鯉の滝登り」の言い伝えをもとに当時の商人たちが考え出した飾りです。
上の井原西鶴の武道伝来記の挿絵とその下の浮世絵と見比べてみると、上の挿絵の方に描かれているのは武家だということが分かります。たくさんの幟旗や兜、本物の薙刀などが飾られていますが、鯉のぼりや武者絵幟はありません。
武家以外の商人や一般庶民が節句人形を飾るようになったのは、江戸時代中期になってからのことです。戦が無くなり、平和な世の中が長く続いたため、商人の勢力が増し、さまざまな庶民文化が盛んになっていきました。

斎藤幸雄 編,武笠三 校,有朋堂書店『江戸名所図会 1』(国立国会図書館所蔵)
「国立国会図書館デジタルコレクション」収録
(https://jpsearch.go.jp/item/dignl-964491)

節句の風習が一般へも広がると、江戸の街には雛人形や五月人形を扱う人形屋が数多く立ち並ぶようになり、大変賑わった様子が文献にも残されています。その中には付属品や小道具だけを扱う店もあったようです。
新しい五月人形が次々と生み出されていった背景には、平和な時代に豊かな文化を育んだ商人たちの自由な発想がありました。特に浄瑠璃や歌舞伎などの娯楽が盛んになり、人気役者の姿や流行の物事を描いた浮世絵も大人気だったことから、人気演目の武者人形や浮世絵職人の手による武者絵幟なども発展しました。その中には人形に合わせて新たに作られた道具の数々もあったのです。

さいごに

五月人形の本来の意味は子どもに降りかかる災厄を避けるために身代わりとして飾るお守りでした。お道具として飾られる弓や太刀は、もともと吹き流しや幟旗などと屋外に飾られていた物が変化し、徐々に室内に飾られるようになり、現在のような形になりました。
近代になってからも五月人形は世の中の移り変わりに合わせて変化し続けています。その歴史を辿ってみると、現代の住宅事情に合わせて形を変えることも自然の成り行きだということが分かります。
子どもの無病息災を願って飾るという基本を踏まえた上で、個々の家ごとにオリジナルの五月人形や小道具を作り出すことも楽しい試みではないでしょうか。


※本記事は掲載時点の情報であり、最新のものと異なる場合があります。予めご了承ください。


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